makiのきまぐれ読書日記

読んだ本を忘れないように。。。

つながっていく三日月堂の活版印刷。第2弾 ~海からの手紙~

 

前回は川越運送のハルさんの周りの人たちから活版印刷日月堂へとつながるお話だったけど、今回は、三日月堂を利用したり、利用した作品を見たりした人が三日月堂に足を運んで。。。というお話だった。

共通したテーマは、「自分らしく、生きる」かな??

 

 

「ちょうちょうの朗読会」

主人公は小穂(なんて読む?)。図書館司書。

前作「ひとつだけの活字」で結婚式の招待状を作った雪乃さんとは同僚ということで、活版印刷の三日月堂へとつながる。

 

人と話す画の苦手で川越のカルチャーセンターで朗読口座なるものを受けている。

そこの講師の黒田先生から、同じ年ごろの3人、合計4人で朗読会を進められる。

三咲(小学校の教師)、遥海(アナウンサーの卵)、愛菜(子供英語教室の講師)に対して、劣等感を抱いてる私だけれど、大好きな本『車のいろは空のいろ』が演目に決まり、断るはずが、しっかりと参加することになる。

小穂は小穂らしく読めばいいんだよ

朗読会で命までとられるわけじゃないし

ってことで、一方踏み出す。

言葉って種のようなものかもしれません。

小さいけど、まくと芽が出て、葉が出て、花が咲いて・・・小さな種のなかに木や草が丸ごと入ってる

小さな種になっているから、木という小さな器に入れることができる。そして、私たちの心にまかれ、芽を出し、大きな気になる。

むずかしいものなんですね。言葉を声にするのって

声を操る小穂と言葉をあつかう弓子さんの会話が、心にしみます。。

おかげで小穂は劣等感の渦から、ほんの少し足を踏み出せて、よかった。。。

 

国語の教科書にのっているという「車のいろは空のいろ」。小学生のころ、国語の教科書が大好きで、もらったその日から、楽しみに全部に目を通すほど!だったその私がこのお話を知らないのは??きっと地域が違うからだね!絶対、忘れてるっていうんじゃない!!・・・と思いたい(^^;

 

 

「あわゆきのあと」

主人公は広太。小学五年生。

お母さんが先日、担任の先生中谷三咲先生が参加する朗読会に行ってプログラムをもらってきた。先生はそのプログラムを印刷してくれた活版印刷のお店にお礼に行くんだって。。。こっそりついてきて、やってみたいといったらワークショップのお話に!

ただ、先日実は僕にはお姉さんがいたって言われて、生まれて3日で死んじゃったって言われて、こんどおじいちゃんの法要の際に、姉さんの骨もお墓に納めるって父さんが教えてくれた

人が死ぬって、怖いことでしょ?

の問いかける広太君に答える弓子さんの答えが絶妙

過去の記憶はその人がいなくなっても残る。けど、生きていたら一緒に過ごせたかもしれない時間は?

私には、父の記憶がある。それはずっと宝物だよ。けど、広太君のお父さん、お母さんには、なくなっちゃった未来しかない

あとはずっと消えないかもしれない。でも、大事なものだから痛くても傾斜行けないと思う。

そこから、お姉ちゃんの名前の「ファースト名刺」をつくって両親にプレゼントする広太君、めっちゃ素敵だ(^^)

あと、住職さんの言葉も心にしみる。

そうか、広太君は毎日楽しいのか。いいことだねぇ。でも、それはちょっとむずかしいかもしれないよ。生きるってことは、まぁ、時々はそういう楽しいことがあるかもしれないけれど、それはほんのちょっと。人生の大部分はね、戦い

そだね~。でも、小学5年生でしかない広太君にそう教える住職さん。すごくない?笑

 

 

「海からの手紙

主人公は田口昌代。銅板画作者。

いとこの息子、広太くんから「あわゆき」の名刺をもらった。それは川越にある活版印刷所で広太が自分で刷ったという。いわば人生の戦いに負けて(?)川越に帰ってきた主人公だけど、地元にそんなところがあるの?ってな軽い気持ちで三日月堂へ。で、なぜだか弓子さんの活版印刷と、昌代の銅版画で「豆本」を作成することに。。。

銅版画の印刷機を置いてある工房の今泉さんの言葉が光ります。

表現は翼ですよ

投壜通信(とうびんつうしん)って言葉があるでしょう?詩は海に投げられた壜に入った手紙みたいなものだって。いつかどこかの岸に、ひょっとしたら心の岸に打ち寄せられるかもしれないという・・・

またこちらは弓子さんのお話

印刷物は言葉の仮の姿だと思うんです。『残す』というより、言葉を複製し、多くの人に『届ける』ことが目的。本当に大事なのは言葉ですよね。その紙がなくなっても、書かれていた言葉が人の心に残ればそれでいいと思うんです。

奥さんをなくして心が俺かけてた今泉さんと昌代さんが出会ったのも、昌代さんと弓子さんが出会ったのも、素敵な縁だなぁ。。。と(^^)

 

 

「我らの西部劇」

主人公は片山慎一。体をこわして会社をやめて家でぶらぶらしてる。長男坊とはうまくいってない。ぶらぶら途中に古書店にはいり、三日月堂出版の「豆本」に出合う。

日月堂。。。亡くなった父が通っていた「からすのおじさん」がいる三日月堂!?

そこに言ったきっかけで、亡くなった父が書いていたコラムを三日月堂で本にするという話があったことを知る。

書きたいことを思いつく。けど、言葉にしようとしてもうまく言えなくて、ちがうことになってしまう。読み返して見ると、言いたかったこととずれてる気がする。その分だけ見ると、筋は通ってる。でも、やっぱり違うと思う。

そういうときは、もう一度自分のなかを見据えるんだ。言葉を探して、思いに近づける。いくら直しても完璧にあることなんてないけどな。不思議なもんだよ、自分の考えてることなのに、自分でもはっきりとはわからない。

父に言われた言葉。父は、映画が大好きで、生き字引みたいな人だった(笑)

長男坊が自分に取っていた態度が、実は自分が父に対してとっていた態度と同じことに気づき、長男と話をすれば、映画の道に進みたいということを知る。血は争えないものである(笑)

そうして、片山家の歯車もうまく回り始めた。それに加え、昔の三日月堂を知る片山のおかげで、最初の章で弓子が、この大きな機械も動かしてみたい。といっていた件まで回収される。

父のコラムを本にするにはその機械を動かさないと始まらないから!!

 

日月堂でもまた新たな動きがでて、続きが楽しみですね(^^)

もちろん、片山父の完成したコラム本が息子君やら、杉山さんやら、その他の人の手に渡った感想とかももちろん知りたいけれど、ここからまたきっと、三日月堂活版印刷がまた広がってくんだろうと思うと。。。

 

ワクワクしかない。

 

今回は、「死」というテーマが多かった気がするけど、そのイメージからはかけ離れた温かい結末が、とてもよかったです(#^.^#)